天ぷらはポルトガル発祥
カトリックの断食が生んだ日本料理の奇跡
「天ぷら」という言葉を知らない外国人はほとんどいない。日本を代表する料理として世界に広まったこの揚げ物料理には、意外すぎる起源がある。
天ぷらはポルトガルのカトリック宣教師が、断食の戒律を守るために作った料理なのだ。
1543年。種子島。
ポルトガル人の船が嵐で漂流し、日本の南端の島に漂着した。アントニオ・デ・モッタ、フランシスコ・ゼイモト、アントニオ・ペイショトの3人が、記録に残る最初のヨーロッパ人として日本に足を踏み入れた。
彼らが持ち込んだのは鉄砲と交易品だけではなかった。
1549年、イエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエルが長崎に上陸し、本格的な布教が始まった。肥前の大名・大村純忠がキリスト教に改宗し、各地に日本人信者が生まれた。1569年までに約30万人の日本人がキリスト教に改宗したと言われる。
ここでカトリックの重要な戒律が関係してくる。
カトリックには「四季の斎日(Quatuor anni tempora)」と呼ばれる年4回の断食期間がある。ラテン語で「四つの時期」を意味するこの期間、春・夏・秋・冬の各季節の変わり目は、水曜・金曜・土曜の3日間、肉食が禁じられていた。
さらに四旬節(レント)と呼ばれる復活祭前の40日間も、同様に肉が禁じられた。
肉を食べられない日に、何を食べるか。
残っているのは魚と野菜だった。
ポルトガルにはこの断食期間に食べる伝統的な料理があった。「ペイシーニョス・ダ・オルタ(peixinhos da horta)」——直訳すると「菜園の小魚」。インゲン豆やピーマンなどの野菜を小麦粉の衣をつけて揚げたものだ。形が魚に似ているからこう呼ばれた。
宣教師たちは日本でも断食期間を守り続けた。肉の代わりに魚と野菜を揚げて食べた。日本人の料理人たちはこれを見て、技術を学んだのだった。
「天ぷら」という言葉の語源こそが、この起源を最も雄弁に語っている。
ラテン語の「tempora(テンポラ)」「時期」を意味する言葉で、四季の斎日を指す教会用語だ。ポルトガル宣教師が「今日は断食の時期(ad tempora quadragesima)だから肉は食べられない」と言う際の「tempora」が、料理の名前になった。
あるいはポルトガル語の「tempero(テンペロ)」「調味料」「味付け」を意味する言葉から来たとも言われる。
いずれにせよ、「天ぷら」という言葉はラテン語・ポルトガル語に起源を持ち、カトリックの断食文化と不可分に結びついている。
しかし日本人は単に「真似た」わけではなかった。
ポルトガルの揚げ物料理は、厚い衣をつけてラードで揚げていた。
重くて油っこいため、日本人の口には合わなかった。
そこで日本人が加えた革新が二つある。
一つ目は「衣の改良」だ。小麦粉に冷水と卵を加えた薄くて軽い衣。混ぜすぎず、グルテンを形成させないことで、揚げた時に軽くサクサクした食感になる。このためにあえて衣を「ダマ」のある状態のままにする技術が確立された。
二つ目は「揚げ油の変更」だ。ラードではなく、胡麻油や植物油で揚げる。日本ではすでに奈良時代から植物性の油を使う調理文化があり、天ぷら以前から揚げ物の技術が存在していた。
この二つの改良によって、ポルトガルの「断食食」は日本独自の料理「天ぷら」に生まれ変わったのだ!
江戸時代になると、天ぷらは庶民のファストフードとして全国に広まった。
屋台文化が花開いた江戸で、天ぷら屋台は蕎麦・うなぎと並ぶ三大ファストフードのひとつだった。川岸に停泊する屋台から天ぷらの香りが漂い、職人や町人が揚げたての一本を食べながら歩いた。
1671年に出版された料理書「料理献立抄」に天ぷらの現代的なレシピが初めて掲載される。その後、天ぷらは江戸の食文化に完全に溶け込み、「日本発祥の料理」として世界に広まっていくことになる。
ポルトガルには今も「ペイシーニョス・ダ・オルタ」が存在する。インゲン豆の天ぷら——これが天ぷらの原型だ。ポルトガル人はこれを「天ぷらの先祖」とは思っていない。ただの野菜の揚げ物として食べている。
一方の日本では、天ぷらはミシュラン三つ星レストランで供される最高級の料理に進化した。一本一本、職人が目の前で揚げ、食べごろのタイミングで差し出す。カウンターに座った客が、揚げたての食感と香りを最高の状態で楽しむ。
これは日本の食文化が生み出した美学なのだ。
断食の戒律が生み出した料理が、海を渡って日本に届き、日本人の手によって芸術の域にまで高められた。
「天ぷら」の語源であるラテン語「tempora」は「時を守る」を意味する。揚げたての天ぷらを、最も美味しい瞬間に食べる——この「時」へのこだわりは、計らずも言葉の意味と一致しているのだ。













