江戸の寿司はファストフードだった
「高級料理」になったのはつい、最近の話
カウンターに座り、白木の板の上に静かに置かれる一貫。職人と向き合う緊張感。一人数万円のコース。でも、これは「寿司の本来の姿」じゃない。
江戸時代、寿司は屋台で立ったまま食う、庶民のファストフードだった。
そもそも「寿司」の起源は、江戸とは全く関係がない。
寿司のルーツは東南アジアにある。魚を塩と米に漬け込んで発酵させ、長期保存する方法——これが稲作の伝来とともに中国を経由して日本に入ってきた。奈良時代(8世紀)の法令集「養老令」には既に「鮓(すし)」の記述がある。
このオリジナルの寿司を「なれずし」という。
魚を塩でまぶし、米と一緒に数ヶ月から数年漬け込む。乳酸発酵が進むと魚が保存できるようになる。ポイントは、この段階では米は「漬け床」にすぎないということだ。発酵が終わったら米は捨てて、魚だけを食べた。
現代の感覚では驚くかもしれないが、「なれずし」において米は食べるものではなかったのだ。
今も滋賀県では「鮒寿司(ふなずし)」という形でこの製法が残っている。
琵琶湖のフナを1年以上発酵させたもので、独特の強烈な香りがある。これが寿司の原点だ。
この「なれずし」が日本に定着した後、室町時代あたりから変化が始まる。
発酵期間を短くした「なまなれ」が登場し、米も一緒に食べるようになった。さらに江戸時代中期、発酵を待たずにただ酢を加えて酸味をつける「早ずし(はやずし)」が普及した。
数ヶ月待つ必要もない。今日作れば今日食べられる。
これが決定的な革命だったのだ!!
1820年代、江戸・両国。
華屋与兵衛(はなやよへい)という料理人が、さらに一歩進めた。
酢飯を手で握り、その上にネタをのせる——「握り寿司」の完成である。
当時の江戸は人口100万人を超える世界有数の大都市。
単身赴任の男性が多く、外食文化が発達した。
蕎麦、天ぷら、そして寿司——屋台が街のあちこちに並んでいた。
与兵衛の握り寿司は、この都市のニーズにぴったりはまったのだ。
ただし、一つだけ現代と違う点がある。
当時の握り寿司は今の2〜3倍の大きさ。
どちらかと言えばおにぎりと言った方が近い代物である。
「妖術といふ身で握る鮓の飯」
当時の川柳にこんな句がある。
寿司職人が素早く握る手つきが、呪術師が呪文を唱える手に見えた、という意味。
江戸っ子にとって握り寿司は、珍しくて不思議なものだったのがよくわかる。
与兵衛はまだ止まらない。
屋台だけでなく、岡持ちで売り歩く「宅配寿司」も始めた。
イベントや花見の宴会場に注文を受けて届ける。
江戸時代の後期、すでに「店で食べる」「屋台で食べる」「宅配で食べる」の3択が揃っていた。
もうひとつ面白い話がある。
江戸時代、寿司屋では長らく酒を出さなかった。
なぜか。
寿司はもともと「食事」ではなく「おやつ」だったからだ。
朝昼晩の三食のあいだに食べる間食——そういう扱いだった。
酒の肴として寿司をつまむスタイルが広まったのは、大正末から昭和にかけての話だ。
そして寿司屋の湯飲みが大きいのも、この時代の名残だ。屋台時代、職人は一人しかいないから、お茶を取り換えてる暇がない。だから大きな茶碗に一度にたっぷり入れた。その習慣が今も続いているのだ。
江戸前寿司が「高級料理」として位置づけられるようになったのは、冷蔵技術の発達と戦後の経済成長が大きく関与している。生のマグロやウニが安定して供給できるようになり、衛生管理が厳しくなり、「カウンター越しに職人が一貫ずつ握る」という現在のスタイルが確立された。
それでは、今回はこれでおしまい。
それではまた次のレポで~














