町中華にガチで迫らせろよ!!!!
~町中華全史~
目次
町中華は、ただの中華料理ではない
長崎から始まった、中国料理の受容
長崎ちゃんぽんは、華僑の生活から生まれた!?
開港場に集まった華僑コミュニティ
中華街の料理から、日本人大衆の外食へ
來々軒は、華僑料理人の技術を大衆向けに翻訳した店だった!!
戦前の「支那料理」は、都市の外食になっていく
戦後、引揚者(ひきあげしゃ)と闇市が料理を動かした
餃子は、戦後に日本型の焼き餃子として広がった!?
ラーメン、チャーハン、餃子が町中華の中心になった理由
高度経済成長期、町中華は「町の台所」になった
町中華は、中国料理の劣化版ではない
キーワード解説
町中華
日本の町に根づいた、大衆食堂的な中華料理店のこと。
本格中国料理というより、ラーメン、チャーハン、餃子、炒め物、定食などを、日常食として提供する店を指す。
華僑
中国から海外へ移住し、現地で生活や商売を営んできた人々のこと。
日本では長崎、横浜、神戸などの港町で、中国料理店や中華街の形成に深く関わった。
オランダ商館
江戸時代の長崎に置かれていた、オランダとの貿易拠点。
長崎が鎖国下でも海外文化と接点を持っていたことを示す存在である。
唐人屋敷
江戸時代の長崎に設けられた、中国人商人の居住区域。
中国人商人が一定期間滞在し、貿易や生活を行った場所で、中国文化が長崎に伝わる一つの拠点となった。
卓袱料理
長崎で発達した、和・中・洋の要素が混ざった宴会料理。
中国料理そのものではなく、長崎という港町で複数の文化が接触する中で生まれた折衷料理である。
福建系
中国福建省にルーツを持つ人々や文化のこと。
長崎の華僑文化や、長崎ちゃんぽんの成立を考える上で重要な背景となる。
陳平順
長崎の中国料理店「四海樓」の創業者。
中国人留学生に安く栄養のある食事を提供するため、ちゃんぽんを考案した人物として知られている。
開港場
幕末以降、外国との貿易のために開かれた港のこと。
横浜や神戸のような開港場には外国人や華僑が集まり、中華街や中国料理店が形成されていった。
広東語
中国南部の広東地方などで話される中国語の一種。
開港場では、広東語や英語に通じた中国人が、貿易や通訳の場で重要な役割を果たした。
中華街
華僑が集まり、生活、商売、信仰、飲食の拠点として形成された地域。
日本では横浜、神戸、長崎の中華街がよく知られている。
関帝廟
三国志で知られる関羽を祀る廟。
華僑社会では信仰や商売繁盛の象徴とされ、中華街のコミュニティを支える中心的な場にもなった。
南京町
神戸に形成された中華街のこと。
神戸開港後、華僑が元町周辺に集まり、商売や生活の場として発展していった。
來々軒
明治末期の浅草に開業した、中国料理店。
中国人料理人の技術を使い、支那そばやワンタンなどを日本人大衆向けの外食として広めた店として重要である。
支那料理/支那そば
戦前に使われていた、中国料理や中華風料理を指す呼び方。
現在では一般的に使われない表現だが、当時の都市外食を理解する上では重要な歴史用語である。
引揚者
戦後、満洲や中国大陸などから日本へ戻ってきた人々のこと。
現地での食体験や調理法を持ち帰り、戦後のラーメンや餃子などの広がりにも関わった。
闇市
戦後の物資不足の中で、駅前や都市部に生まれた非公式の市場。
食糧難の時代に、ラーメンや餃子など安く腹にたまる料理が広がる場の一つとなった。
高度経済成長期
1950年代半ばから1970年代初めにかけて、日本経済が大きく成長した時期。
都市化や外食需要の拡大とともに、町中華が駅前、商店街、住宅街などへ広がっていった。
中国料理は、どうやって日本人の日常食になったのか
町中華を考えるとき、いきなりラーメン、チャーハン、餃子から始めると少し浅くなる。
なぜなら、町中華は単なる料理ジャンルではないから。
そこには、長崎に来た中国商人、開港場に集まった華僑、横浜や神戸の中華街、浅草の大衆外食、戦後の引揚者、闇市、屋台、家族経営の飲食店、様々なヒストリーが幾重にも重なっている。
町中華とは、中国料理がそのまま日本に移植されたものではなく、人の移動と都市の変化の中で、日本人の生活に合わせて翻訳されていった料理文化なのだ!
1. 長崎から始まった、中国料理の受容
江戸時代、日本は鎖国体制にあったが、完全に外国と断絶していたわけではない。
長崎にはオランダ商館が置かれ、同時に中国商人も出入りしていたし、1689年には唐人屋敷が整備され、中国人商人たちは長崎の一定区域に居住するようになった。
ここで重要なのは、長崎が単なる貿易港ではなく、中国文化が継続的に流れ込む特殊な都市だったという点だ。
中国人商人は、商品だけを運んでいたわけではない。
食材、調味料、宴会の作法、料理技術、食器、宗教、祭祀、言葉、商売の習慣も一緒に持ち込んだ。
その結果、長崎では卓袱(しっぽく)料理のような、和・中・洋が混ざった独特の宴会料理が発達した。
卓袱料理は、中国料理そのものではない。
日本料理でも、西洋料理でもない。長崎という港町で、中国人、オランダ人、日本人が接触する中で生まれた折衷料理である。
この時点で、すでに中国料理は「本場そのまま」ではなく、日本の土地に合わせて変化し始めていた。
2. 長崎ちゃんぽんは、華僑の生活から生まれた!?
長崎で中国料理が日本化した代表例が、ちゃんぽんである。
ちゃんぽんは、福建系の華僑文化と長崎の食材が結びついて生まれた料理として知られている。
よく語られるのは、長崎の中国料理店「四海樓」の創業者・陳平順が、中国人留学生に安く、栄養のある食事を食べさせるために作ったという話。
留学生を食べさせるための料理。
つまり、異国で暮らす中国人の生活を支えるための実用食だった。
野菜、肉、魚介、麺を一杯にまとめる。安く、腹にたまり、栄養も取れる。そこに長崎の海産物や地元の食材が加わり、やがて日本人にも受け入れられていく。
この流れは、後の町中華とかなり近い。
高級料理ではなく、日々を生きるのための料理。
特別な日ではなく、腹を満たすための料理。
ちゃんぽんは、町中華以前に起きていた**「中国料理の生活食化」**の一つだったのだ!!
3. 開港場に集まった華僑コミュニティ
1859年に横浜が開港すると、中国人たちが港町に集まり始める。
料理人のみならず、貿易商、通訳、職人、理髪業、菓子製造、家具製造など、さまざまな仕事に関わっていた。
当時の日本と欧米商人のあいだでは、**中国人が通訳や仲介者として重要な役割を果たした。**広東語や英語に通じる人々もおり、港町の商業を支える存在だった。
そうした華僑コミュニティの生活圏の中から、中国料理店も生まれていく。
横浜では、開港後に**広東省出身者を中心とする華人が集まり、現在の中華街の基礎が作られた。**1862年には関帝廟の前身となる祠(ほこら)が建てられ、信仰とコミュニティの中心になっていった。
神戸でも、1868年の開港後に華僑が元町周辺に集まり、南京町が形成されて、
長崎、横浜、神戸はそれぞれ違う成り立ちを持ちながらも、中国人の移動と商売を背景に中華街を発展させていった。
ここで大事なのは、初期の中国料理店が最初から日本人大衆のための店ではなかったという点である。
最初は、華僑自身のための料理であり、港町の外国人、貿易関係者、商人たちのための料理だった。
つまり、中国料理はまず**「港町のコミュニティ食」**として存在していたようである。
4. 中華街の料理から、日本人大衆の外食へ
やがて中国料理は、華僑コミュニティの内部だけにとどまらなくなる。
港町の中国料理店は、日本人客も受け入れるようになり、料理は少しずつ日本人の味覚、価格感覚、食事様式に合わせて変化していった。
ただし、この段階の中国料理は、まだ日常食というより異国の料理に近かった。
中華街に行って食べる料理、都市部の高級中国料理店で味わう料理、外国人居留地や繁華街で体験する料理といった感じの、
つまり、まだ日本人の舌にあった飯ではなかった。
この中国料理を、日本人大衆の外食へ一気に近づけた存在が、浅草の來々軒だった。
5. 來々軒は、華僑料理人の技術を大衆向けに翻訳した店だった!!
浅草の來々軒が重要なのは、単にラーメンを出したからではない。
港町の中華街や華僑コミュニティの中にあった中国料理の技術を、浅草という日本人大衆の娯楽地に持ち込んだことが大きかったようで…
來々軒では、中国人料理人を招き、支那そば、ワンタン、シュウマイなどを提供した。
場所は中華街ではなく、浅草。
客は華僑や貿易関係者だけでなく、浅草に遊びに来る日本人の庶民。
料理は高級宴席ではなく、支那そばやシュウマイのような、
短時間で食べられる外食メニュー。
中国料理が一部の外国人街の料理から、都市庶民の外食へ変わり始めたきっかけである。
6. 戦前の「支那料理」は、都市の外食になっていく
明治末から大正、昭和初期にかけて、都市部では**「支那料理」「支那そば」**と呼ばれる料理が広がっていく。
東京、大阪、京都などの繁華街には中国料理店が増え、デパートの食堂や大衆食堂にも中華風のメニューが入るようになる。
この時期の中国料理は、まだ家庭料理ではなかった。
あくまでも外食。
支那そば、ワンタン、シュウマイ、炒め物。
これらは日本人にとって異国風でありながら、同時に手の届く外食でもあった。
ここで中国料理は、二つの方向に分かれていく。
一つは、中華街や高級店で食べる本格的な中国料理。
もう一つは、都市の庶民が食べる、安くて早い中華風の外食。
後者の流れが、のちの町中華につながっていったのだ!!
7. 戦後、引揚者(ひきあげしゃ)と闇市が料理を動かした
戦後になると、中国料理の広がり方はさらに変わる。
大きな要素になったのが、満洲や中国大陸からの引揚者である。
戦前から戦中にかけて、中国大陸や満洲で暮らしていた日本人は少なくなかった。
敗戦後、彼らは日本へ戻ってくる。
その中には、現地で食べた料理、覚えた調理法、商売の経験を持ち帰った人もいた。
餃子、ラーメン、炒め物、小麦粉料理。
こうした料理は、戦後の食糧難の中で強い意味を持った。
安い材料で作れて、腹にたまる。
屋台でも出せるし、大量に作れる。
この条件が、戦後の都市に合っていた。
闇市や駅前の屋台では、ラーメンや餃子が人々の空腹を支える料理になっていく。
その中で、中国料理は「異国の料理」というよりも、戦後復興期の実用食として受け入れられ浸透していった。
ここで、料理の意味が変わる。
珍しい料理から、腹を満たす料理へ。
外来文化から、生活の道具へ…
8. 餃子は、戦後に日本型の焼き餃子として広がった!?
餃子は中国では古くから食べられてきた料理だが、日本で大きく広がったのは戦後である。
特に日本で定着したのは、焼き餃子だった。
中国北方では水餃子が主流だが、日本ではご飯と一緒に食べやすく、ビールにも合い、店でも家庭でも作りやすい焼き餃子が広がった。
ここでも「日本化」が起きている。
餃子は中国料理として入ってきたが、日本では主食ではなく、おかずになった。
ご飯と餃子。ラーメンと餃子。ビールと餃子。
この組み合わせが、日本の外食と家庭に合った。
町中華の餃子は、中国料理の再現というより、日本の米飯文化と酒場文化に合わせて変形した料理だった。
9. ラーメン、チャーハン、餃子が町中華の中心になった理由
町中華の定番といえば、ラーメン、チャーハン、餃子だ。
この三つが残ったのは、単に人気があったからではなくて、
店にとって合理的だったかららしい。
ラーメンは、スープと麺を用意すれば短時間で出せる。
価格を抑えやすく、同時に満腹感を与えれる。
チャーハンは、米、卵、ネギ、チャーシューの端材などを使えるし、中華鍋の強火で短時間に作れ、店の技術も出る。
餃子は、仕込みができる。焼けばすぐ出せる。定食にも、酒のつまみにも、ラーメンの追加にもなる。
つまりこの三つは、客にも店にも都合がよかった。
安い。
早い。
腹にたまる。
仕込みやすい。
米にも酒にも合う。
だから残ったというわけだ。
町中華のメニューは、味だけで選ばれたのではない。
都市生活と店の経営に合う料理が、定番として生き残ったのである。
10. 高度経済成長期、町中華は「町の台所」になった
高度経済成長期になると、町の中華料理店は全国に広がっていった。
駅前、商店街、住宅街、工場地帯、学生街。
そこに、家族経営の中華料理店が増え
店にはラーメン、チャーハン、餃子だけでなく、レバニラ炒め、肉野菜炒め、中華丼、天津飯、麻婆豆腐、酢豚、八宝菜、カレー、オムライスまで並ぶこともあった。
もはや純粋な中国料理店ではない。
町の人が求めるものを何でも出す、中華風の大衆食堂の完成である。
昼は労働者や学生の食事。
夜は瓶ビールと餃子。
家族連れにはラーメンとチャーハン。
近所には出前。
町中華は、料理店であると同時に、町の食インフラとなったのだ。
11. 町中華は、中国料理の劣化版ではない
町中華を「本場中国料理ではない」と一言で片づけるのは簡単だ。
たしかに、町中華の料理は中国各地の料理を正確に再現したものではない。
ラーメンも、焼き餃子も、天津飯も、中華丼も、日本で大きく変化した料理である。
しかし、それは劣化ではない。
町中華は、中国料理が日本の町で生きるために変形した姿だ。
長崎の唐人屋敷では、中国人商人の生活と日本の食文化が接触した。
横浜や神戸では、華僑コミュニティが中国料理店を支えた。
浅草の來々軒では、華僑料理人の技術が日本人大衆向けに翻訳された。
戦後には、引揚者と屋台文化がラーメンや餃子を広めた。
高度経済成長期には、家族経営の店が町の胃袋を支えた。
この長い流れの先に、町中華がある。
中国料理が、日本の都市、日本の米飯文化、日本人の価格感覚、戦後の空腹、家族経営の飲食店、出前文化と混ざりながら生まれた、日本独自の大衆食文化である。
だから町中華の歴史をたどることは、ラーメンや餃子の歴史を調べることだけではなかった。
人が移動し、技術が移動し、料理が翻訳され、町の生活に入り込んでいく歴史をたどること。
これが町中華を語るということなのだ!!!!!
どうでしたか、町中華全史。
全史とかって言ってもまだまだ掘ればいろいろ出てくると思います。
これからも、こういった変化球的な食に関する知識もお届けしていけたらいいなと思ってるのでよろしくお願いします。
ではでは、また次のレポで~















デン太郎さんこんばんは!今回は町中華の記事楽しく読ませてもらいました。町中華は大好きだけど、歴史についてはよく知らなかったのでとても勉強になりました。この記事を読んで町中華は日本になくてはならない食文化だよなと強く感じました!
最近、本当の人気の町中華店が少なくなってきてさみしいね。
中国人の1代で町に根付いた店がなくなってるのがね。
チャーハンも、店ごとに味も違うし。それが楽しかったんだけど。